「死」は果たして不幸なことなのか?

誰もがいつか迎える「死」生物である以上、避けて通ることのできないものですが、「死」とは本当に不幸なのか?

ちょっと厨二病と思われてしまいそうなお題ですが、人生の折り返しを迎えたタイミングをきっかけに、これまでいろいろな人の話を聞き、自分の体験も総合した結果の現時点での自分の考え方を整理してみました。

まずは自分の体験について。
27歳くらいの頃に仕事の激務が続いており、毎日十数時間働いていた時。一人暮らしの部屋に帰ってきてぎっくり腰のようになって、その後30分で服も脱げないほどの激痛で一睡もできない夜を過ごしました。その時思ったのが「こんなに激痛が続くのならいっそ死にたい」ということ。そのくらいの激しい痛みでした。結局翌朝救急車を呼んで担架で運ばれて病院でブロック注射を打って2週間の絶対安静の入院を経て、無事元の生活に戻ることができました。

ガンになると抗がん剤治療薬などで激痛に耐えなければならないという話も聞きます。文字通り「死ぬほど痛い激痛」を味わってまで生き続ける価値はあるのか?と。

今考えても「死ぬことで激痛から解放されるなら死にたい。死んだほうがマシ」と考えるのはごく自然な事なのではと思います。死ぬことで痛みから解放されるのであれば自分は間違いなく死を選びます。

今、精神を病んでるわけでも何でもなく、普通に考えたらそうなるよねという話であって、別に自殺したいとか考えているわけではありませんのでご安心を。

「『死』は『怖いもの』。『死ぬこと』は『不幸なこと』」と無意識に刷り込まれて生きている人が多いかと思いますが、「実は『死』とは、ある種の『救い』であり、『生』からの『解放』なのかもしれない」という考え方もできるのではと考えるようになりました。生きることが苦痛である人は、死を迎えることによってその苦しみから解放されることにもなります。
※ここだけ聞くと変な宗教にでもハマってしまったのか?と思われそうですが。笑

苦しみをずっと味わい続ける状況は永遠に痛みを受けなければならないような状況とイコールだとして、楽になる一つの方法として死を選ぶのも選択の自由なのではとも思います。(こんなこというとヤバいやつと思われてしまうかもしれませんが…)もっとも、そのような現実から何もかも投げ出してでも逃避して、全く異なる環境で人生を歩んでいってもらえるのがよいのかもしれませんが。

今、生きている世界でも痛みを受け続けるのであれば、「いっそ死を迎えてしまった方が楽だ」という結論に至って自死をしてしまった場合、他人から見れば「不幸」なのかもしれませんが、生きている間にずっと苦痛を与えられ続けられる地獄を味わうよりもはるかにマシだと自分は考えます。

生物の種の保存の法則から言うと、生に執着することは当然のことかもしれません。しかし、日本は「自分の生活の質を落とすくらいなら子どもを産まなくていい」と考える人がすでに多くなってきていて、世界でも最先端をいく超高齢化社会です。本来の生物としての本能を無視した行動を取っているということになります。種の保存の法則から外れる考えを持つ人が増え、「痛みを受け続けるなら死を選びたい」とか「人生においてこんなに苦悩しなければならないなら死を選びたい」とか、死を肯定する人が出てくるのは当然の流れなのかもしれません。

もしかすると大昔に地球に住んでいた生命体は少子高齢化を経て最終的に絶滅したのかもしれないなとも考えたりしました。

前述したとおり自分も先日で40歳になりましたが、どんなことでも「一般論」と称した一つの物差しで測るのは暴論であって愚かなことだなと思うようになりました。今後の人生ではいろんな価値観を許容でき、話を聞いてそれをたのしめる人間でありたいと思います。

とはいえ、自分の子どもには苦痛や苦悩のない、幸せな家庭を築いて幸せな未来を過ごして欲しいとは思いますけどね。

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